伊江島で出会ったある族の風景(4月14日)

411日、伊江島一周マラソン。本部港から8時出港の伊江島フェリーに乗った。定員700人の船内は満杯だった。

30分で伊江港に着いた。妻が3㎞、次男がハーフを走るので私はサポーター。下船して受付をすると会場のミースイ公園に向かう。その途中で出会ったある家族の風景である。

受付会場を出て少し歩くと、女性がベビーカートを押してくる。子どもたちが側についている。歩きながら訊いた「おたくのこどもさんですか」と。“そうでうす、6人兄妹です。長女が小学校3年生で今日3㌔走ります”と笑顔で応えてくれた。

ちょっと進むときょうだいたちが大暴れ。滑り台のようなコンクリ―トの斜面に長男が駆け上がっていくと、次男、次女が後ろから追う。4歳ぐらいの妹も続く。下りは急斜面。危ない。長女が駆け上がって行って妹をおぶって足を踏ん張りながら降りてきて妹を下ろした。

お父さんらしい人が後ろからついてくる。お母さんはカートから手を離さず「危ないよ」とも言わず、子どもたちは自由に動きまわっている。これぞ放任主義の子育てだと思った。昔の家庭がほとんどそうだった。きょうだいが多いとほっていても子は育つ。

本土から3年前に移住して名護に住んでいるご家族だった。会場でまた会った。長女が“3キロはしったよ”と完走証を見せてくれた。「来年もまたきてね」とバイバイした。お母さんが微笑んでいた。

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414日(水)

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浦添城址に光を当てよう

321日(土)、アミノバリューランニングクラブ沖縄の練習場所は浦添城址公園だった。西側の展望台エリアから東の端に向かってスタートした。粋のいいランナーは走る。嘉手刈さん(92歳)と私(89歳)は尾尻先生について楽々ランニングをしながら史跡を見て回った。

説明によると、浦添城は首里城以前の約200年間、舜天王、英祖王、察度王統の居城だった。しかし、1406年に尚巴志によって滅ぼされ王都は首里城に移った。その後、1609年に薩摩軍の侵攻で城は焼き払われ、戦時中は日本軍の陣地となり米軍の攻撃で破壊された。今は、かつて栄えた城の面影はなく、宜野湾から読谷の残波岬まで見渡す物見台と化している。

浦添城跡は標高130m~140m、東西380m、南北80mの広い高台にある。城址を散策して、一番心を引かれたのは東の端にそびえ立つ高さ13mの巨大な石、通称「為朝岩」(ワカリジー)だった。

もう一つは、南側の斜面にある大きな石台、「馬ヌイ石」だった。伝令が馬に飛び乗り首里城へ向かう早馬の乗り場だったのか。その先には首里城とつながる石畳道があり、古代浦添城と首里城の行き来が偲ばれる。

首里城は琉球王国の居城として栄え、現在も琉球の歴史文化の象徴となり華々しく脚光を浴びている。一方、古代琉球国(中山)として栄えた浦添城は廃城となり訪れる人もまばらである。浦添城址の埋もれた魅力は一般にはあまり知られていない。

 

首里城のルーツは浦添城である。首里城が東京なら浦添城跡は古都京都だ。浦添城址にもっと光を当ててほしい。(字数630字)(新報ティータイム)

卒業式の思い出

仲尾次嗣明(89)

3月7日、那覇市立城北中学校の第52回卒業式に英語学習支援をしている縁でご案内をいただき出席した。

 卒業生入場。1組から4組まで132人の卒業生が揃いの制服に赤いリボンを付けて入場する。その姿を席に座って拝見した。唇を閉じ、前をみて、引き締まった面持ちで行進する。軽やかな足取りに若さが満ち満ちている。

 73年前の自分の卒業式のことがまぼろしのようによみがえる。私は194年にうるま市(旧具志川村)の具志川中学校を卒業した。

 卒業式の記憶は薄れているが、あの一コマが頭をよぎった。3年間一緒に学んだA子さんと別れるのがつらかった。卒業すると別々の高校に進学する。もう会えなくなると思うと寂しい。在学中は話をかわしたこともなく、ただ天の星のように輝くA子さんに憧れていた。Aさんの姿を見るだけで心がときめいた。振り向いてくれないかなとかすかに願った。卒業式の日にサヨナラの一声をかける勇気もなくAさんが去るのをみた。さみしい思い出が残る卒業式だった。

 卒業証書の授与が始まり、生徒11人の名前が呼ばれて卒業証書を受け取りに壇上に上がる。4段ある踏み台をぴょんぴょんと駆け上る卒業生たちの姿をみてしみじみと感じた。「ああ、わが青春は遠くになりにけり」と。

 年を重ねて老いぼれの身になったが心のなかにはまだ青春の息吹が芽吹いている。これからが第2の青春だ。前を向いて生きよう。

(那覇市)

(赤字は編集者の追加)

 

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琉球新報論壇掲載

人手不足の応急的長期的対策

高齢者労働力の活用促進を

 

              県経済は右手に観光客、左手に人手不足明暗が交差している。来県観光客の増加に伴い企業活動は活況だが、他方、 企業の多くが人手不足に苦慮し、対策を模索している。専門家ではないが平素の知見を元に人手不足対策について所見を述べたい。

県経営者協会の人手不足に関するアンケート調査(昨年12月)によると、会員企業(回答132社)の86%が「かなり不足」「やや不足」と回答している。対策として給与の引き上げ(61.4 %)と中途採用の強化(49.2%) を重点に上げ、高齢者採用の強化(8.1%)を検討する企業もある。

 昨今の人手不足は若年労働力の供給不足による労働力需給のひっ迫が背景にある。労働力の供給を増やすことが課題だ。その一策として高齢者(65歳以上)の雇用促進を提案する。

企業の高齢者雇用の現状を見てみよう。沖縄労働局が昨年12月に発表した令和5年「高年齢者雇用状況等報告」によると、「高齢者雇用安定法」が2021年に改正され、「70歳までの高齢者就業確保措置」が企業の努力義務となっている。だが、昨年126月1日現在、実施済の企業(社員規模21人以上)は793社、26.7%である。企業の高齢者雇用への取り組みが遅れている。また、企業(社員21人以上)の常用社員の年齢構成を見ると(上記報告)、社員総数が26万6千154人(令和5年)、そのうち65歳以上の社員は2万3958人で、総社員数の9%に過ぎないすぎない。高齢者雇用に対する消極的な姿勢が伺える。高齢者の就労はどうか。県の総人口は1467480万人(2020年国勢調査)で、その22.6%、33万1404人が65歳以上の高齢者である。「高齢者の就労意向と就労希望年齢」(沖縄労働局「70歳までの雇用推進に向けて」)の資料によると、高齢者の約60%が80歳を超えても働きたいと希望している。だが、実際の就労者は24千人(沖縄労働局20246月)で、働きたくても働き先が見つからない未就労高齢者が20万人以上いると推測される。貴重な高齢者労働力が遊休化しているのが現状である。

そのうえ、少子高齢化が進む。総務省の資料によると20年後の2045年には、県人口は2020年の1467480人から1428千人に減少する。生産人口(15歳―64歳)は現在の60.8%から53.3%に下がり、逆に65歳以上の高齢者比率は22.6%から31.4%に上昇する(総務省統統計局・人口問題研究所)。将来、若手労働力の供給は先細りし、高齢者労働力の供給は増える。若手労働力の需給は一層逼迫ひっ迫する。

以上のように、労働力の需給状況を概観すると、応急的かつ長期的な人手不足対策は高齢者雇用の促進が要になると考える。

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2025年2月1日16:30

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掲載:2月25日(日)